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秀吉との父子関係について

秀頼が秀吉の実子ではないとする説が古くからいわれてきた。

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秀吉は農家の出身でもあることから戦国大名としては稀な非男色家であり、一方多くの女性を愛したとされている。例えばルイス・フロイスの「日本史」には「300名の側室を抱えていた」とあり、誇張が含まれているとしても相当数の女性が常時大坂城にいたようである。

しかし、その一方で淀殿との間以外に子ができず(長子羽柴秀勝ら長浜城時代の子の実在を疑う研究者も多い)、また、淀殿だけが2人の子供を生んでいることから、秀吉と秀頼の父子関係に対する疑問が唱えられたものと考えられる。なお、この場合、当然豊臣鶴松も秀吉の子とは考えにくい。秀頼については父子関係を否定する根拠の一つとして秀吉は朝鮮出兵のとき、母大政所の危篤時に帰京したのを除き、文禄元年4月から1年2ヶ月余り、名護屋城に滞在していたことが挙げられる。

では秀頼の実父は誰かという問いに対しては大野治長説と石田三成説が有名で(片桐且元とも)、珍説の類では徳川家康説、名古屋山三郎説がある。治長は淀殿と乳兄弟であったことや三成は淀殿の生家浅井氏の治めた近江出身でその才気を淀殿に買われていたといわれることなどがその主な理由である。特に治長は淀殿と密通していたとの記録もあることから、治長こそ実父であると考える学者は多い。ただし、こうした説の正当性を示す根拠は存在せず、江戸時代以降に豊臣家と縁故の武将の地位を不当に貶めるために、殊更論われたとも言われている。また、三成(且元とも)については淀殿が秀頼を妊娠した時期には文禄の役で朝鮮へ出兵していたため、秀頼との父子関係を合理的に否定することが出来る。

なお、秀吉との間に外見の類似性がないという見方については、前述の祖父母の血統に加えて信長が秀吉を「猿」と呼んでいたことは後世の創作とも言われており、この点は検証に値しない(※豊臣秀吉の項を参照)。

また、かつて秀吉に子がいない(少ない)ことは高台院に原因があるという考え方があったが、これは男尊女卑に基づく陋習であり、高台院以外の多くの女性との間にも子ができにくかった(長浜城時代の子を事実として含めれば、夭折した男児二人、女児一人が秀頼の前にいたことになる)ことから、やはり秀吉自身が子ができない(できにくい)体質であったと考えるべきだろう。

家康が秀吉死後(厳密には前田利家死後)すぐに豊臣家の勢力を削ぐことに傾注し、また、世情がそれに従い関ヶ原の戦いにおいて豊臣恩顧の多くの大名たちが家康側についたことも、当時既にそうした疑念が広まっていた傍証であるという考え方もある。

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2009年05月01日 11:02に投稿されたエントリーのページです。

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